生存者 小原忠三郎伍長の証言




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 これから八甲田山雪中行軍遭難事件を本格的に調べようと思っている諸氏へ。小原伍長の証言が録音されたテープについて伝えておきたいことがある。昭和39年(1964年)12月20日に陸上自衛隊の渡辺三尉が小田原の療養所にいた小原忠三郎伍長にインタビューを行った。この証言テープは陸上自衛隊の青森駐屯地が保管しているものだが、申請をすれば聞くことができる。

 私たちは2009年にこのテープを初めて聞いた。媒体は今ではめずらしいオープンリールのテープ。青森駐屯地から貸し出されたこのテープは見るからに古く、保存状態が良くないことは、すぐにわかった。再生すればするほどテープは痛むので、オリジナルテーブはいっさい手を触れずに保存しておくのが普通。貸し出しや普段聞くのはコピーをしたモノを使用する。自衛隊はオリジナルテープの貸し出しを行なっていたので、この点を指摘、貸し出しは今後CDで、とアドバイスをさせていただき、CDにコピーをして自衛隊に渡した。

 テレビ業界はビデオカメラを使用しているので、オーブンリールのテーブとは無縁。しかし映画業界はフィルムのカメラを使うために、音声録音にはオープンリールの機材を常用していた時代があり、テープの編集ができるスタッフは多数いる。自衛隊から借りたこのオープンリールのテーブ、状態が悪く、再生すると途中で何度かテーブが切れてしまった。

 それ以前に過去に切れた箇所を適当につないでいたのだろう、間違った箇所でつなぎ合わせており、話が飛んでしまう所もあって、私どもの音声技術者がこのテープの編集を行った。またインタビュアーがプロの記者やディレクターではなかったために、話を聞く順序やその時系列が不規則で、これもまた話が飛んでしまう原因となっている。

 小原伍長は遭難当時、八甲田山中で低体温症にかかっていた。思考力、判断力は奪われ、重度の低体温症で現れる幻覚幻聴もあった。生死をかけ必死に歩いていたそんな厳しい状況下で、何日、何時に、どこで、どんな会話を、等々の証言は不正確な部分が多い。実際に倉石大尉など他の生存者の証言記録も時間や場所があいまいで不正確である。

 雪中行軍が行われたのは明治35年(1902年)1月、小原伍長24歳の時。インタビューは86歳の時である。遭難から62年が過ぎ、他の兵士や第三者から聞いたであろう情報を付け加えている部分があり、サービストークも含まれているかもしれない。







 小原伍長の証言テープは非常に貴重なものだが、残念ながら明らかな誤り、記憶違いと疑われる点が多い。露営地からの出発について小原伍長の証言。「大隊長は待てというんですよ。暗いうちに行軍をすると、ますます道に迷う。夜があけて明るくなってから出発する。兵隊はそのとおりにすると凍えて死んでしまいますから、早く露営地を出発したい」証言テーブは行軍二日目夜、鳴沢の露営地での会話と思われた。が、しかし・・・

 遭難現場で当時と同じ雪壕を掘り、実際にその寒さを検証した。この日の気温はマイナス11度、風速10メートル前後、体感気温はマイナス21度前後。明治35年遭難時の、半分か三分の一程度の寒さ、当時の寒さにはまったく及ばない。

しかしながらそんな気温でも、空気は凍り、息苦しさを感じる。闇の中で吹き続ける強風、顔に叩きつけられる粉雪。足元から、地の底から這い上がってくるような冷気。雪壕に数時間いるだけで低体温症の初期症状が複数見られた。これ以上、雪壕の中にいるのは耐え難い!凍死してしまう!と誰もが例外なく思える寒さだった。

 行軍二日目は14時間も歩き続けたうえに露営地の鳴沢では雪壕を掘れず、吹きさらしの暴風雪、酷寒の中、全員が立ったまま休息していた。凍死者が最も多く発生した夜のことである。そんな状況で大隊長以下、兵士たちも交えて出発するか否かの話し合いができる状態だったろうか?







 歩兵第五連隊の「遭難始末」では第一日目の夜に協議が行われ、出発予定時刻を午前5時から午前2時30分に繰り上げ、青森に戻ることを決定したと記載されている。冷静さを保てたのは第一日までであり、二日目以降は八甲田を彷徨、遭難状態に陥り、著しい疲労と空腹、睡眠不足、暴風雪と深い雪、低体温症による思考停止、判断力の欠如・・・行軍二日目の夜の鳴沢で、小原伍長が証言している話し合いがあったとは、当時の天候と彼らの置かれた状態から判断すると非常に考えにくい。会話どころではなく、声を出すのもやっと、という状況が容易に想像できる。

「このままだと凍死してしまうのですぐに出発したいと兵士たちが懇願し、大隊長は危険だ、夜明けまで待てと止める」これは行軍二日目の夜のことではなく、小原伍長の記憶違いであり、実際は行軍一日目の夜、平沢露営地での出来事だった可能性が非常に高いと判断するに至った。