その後の青森5連隊 ~ 黒溝台会戦




黒溝台から奉天にかけての満州平野。2018年1月27日撮影



八甲田山雪中行軍遭難事件から2年後、日本とロシアは開戦。日露戦争の重大局面といえば、203高地、日本海海戦が思い浮かぶが、日本軍壊滅、日本という国が滅ぶかもしれない可能性、最大のピンチと言われた戦いがあった。それが黒溝台会戦である。北上する日本軍は厳寒で凍結した渾河を挟み、ロシアと対峙していた。満州総司令部は冬の間、ロシアの攻撃はないだろうと楽観視。日本軍の左翼となる沈担堡から黒溝台までの約40キロを秋山好古率いる秋山支隊などが約8000名で守っていた。この最も手薄となっている左翼にロシア軍が突如襲いかかる。1905年(明治38年)1月25日午前3時。ロシア軍その数、10万。





凍りついた渾河。手前が黒溝台。2018年1月28日撮影



日本軍は耐えきれず、各所で後退。ここまで温存されていた立見中将率いる、弘前の第8師団は、苦戦する左翼の種田支隊を支援すべく、全力で黒溝台から五家子の左翼方面に進出。弘前第8師団の布陣は左から、弘前31連隊、青森5連隊、山形32連隊、秋田17連隊。雪と氷に覆われた満州平野の戦いにおいて、最後の切り札として温存されていた弘前第8師団にとって、日露開戦以来、初となる戦闘だった。

弘前8師団に対し、ロシアのシベリア第一軍、ミシチェンコ騎兵団が殺到。ロシアの圧倒的な兵力を前に次々と兵士は倒れていく。ロシア軍は黒溝台、五家子を突破、背後に回り込まれ、弘前8師団は、北、東、南と、三方から包囲されてしまう。この時、日本の運命は弘前8師団に託されたと言っても過言ではない。




現在の地図に当時に状況を重ねてみた。



黒溝台付近は遠く地平線が見えるような平野。小さな川を塹壕代わりにしていた。気温はマイナス27度。まつ毛、まゆ毛は凍りつき、コートは凍って板のようになった。八甲田の時と同じ状況である。この時、ロシア軍はコートの支給が間に合わず、一部の兵士は綿入れのコートを着ていたという。この綿が湿って凍結し、ロシア軍は多數の凍傷者を出した。












黒溝台村。当時も小さな農村だったが戦闘で家はすべて炎上した。



会戦中、最も激しい戦い、両軍が激しい戦闘を繰り広げたのは黒溝台と蘇麻堡の間にある、丘をめぐる戦闘だった。先頭に立つのは青森5連隊の連隊長、津川中佐。八甲田雪中行軍の時の連隊長である。第二大隊を率いたのは塚本少佐。もし雪中行軍隊が八甲田を踏破し、全員が無事生還していたら、雪中行軍の責任者だった山口少佐が第二大隊長として丘の上に立ち、サーベルを抜いていたことだろう。同じく雪中行軍隊指揮官の神成大尉もこの丘の上にいたに違いない。


ドキュメンタリー八甲田山より



八甲田の事故からちょうど3年後となる明治38年1月27日、酷寒のこの地で戦闘の真っ只中にいた八甲田の生存者は、倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長の3名。雪中行軍直前に神成大尉と指揮官を交代した原田大尉もいた。八甲田雪中行軍を成功させた弘前31連隊の福島大尉は、山形32連隊の中隊長となっていた。山形32連隊は青森5連隊の右隣に位置、すぐとなりの老橋付近で激戦の中にいた。

満州平野。烈風が粉雪を吹き上げ、視界はゼロに近い。次々と波のように押し寄せるロシア軍。危機に陥る弘前8師団。最左翼の弘前31連隊は壊滅的な打撃を受けており、8師団の全滅も考えられる状況であった。満州総司令部は焦り、広島第5師団、仙台第2師団を左翼へと向かわせた。


8師団の拠点だった蘇麻堡村。



弘前8師団長、闘将と呼ばれた立見尚文。その人柄を想像するに、怒りっぽくすぐキレる、高血圧、負けという字は我が辞書になし、猛烈、猪突猛進、天才的な軍事家、という感じだろうか。弘前の人々にとっては軍神であり、有名人でもあった。砲弾の飛び交う中、立見は絶叫に近い声で命令を下していたに違いない。司馬遼太郎の「坂の上の雲」では立見の登場するシーンはこんな感じで描かれている。『援軍が来ると聞いた立見は「これほどの恥辱があるか!」と叫ぶ。「わが師団はすでに日本一の精強をうたわれながら、これしきの戦いで苦戦するとは何事か!奥州健児たる者、他師団にひけをとるまいと思えば、他師団が、五、六度の会戦で受けた損害を一度に負うべし!その覚悟で戦うべし!」といったとき、立見は跳ねあがって地団駄を踏み、台にしていたシナ長持(木箱)のフタを踏みやぶってしまった。』



(上)弘前第8師団長 立見尚文、(下)蘇麻堡で指揮を執る立見師団長



5日間に及ぶ不眠不休の激烈な戦闘。黒溝台会戦では兵卒よりも将校や下士官の戦死者が多かった。青森5連隊は連隊長の津川中佐が撃たれて負傷、第一大隊長の井坂少佐が5連隊の指揮をとった。第一大隊の指揮は中隊長の夏脇大尉に。しかし夏脇大尉も負傷し、最終的に青森5連隊第一大隊の指揮を執ったのは、八甲田の救助隊長だった三神定之助中尉だった。




青森歩兵5連隊長 津川中佐。八甲田山雪中行軍遭難事件時も5連隊長だった。



第二大隊長の塚本少佐は丘をめぐる戦いで壮絶な戦死。両軍の血で染まったこの場所は、津川連隊長と塚本少佐の名をとり、津塚ケ丘とも呼ばれた。31連隊の雪中行軍指揮官だった福島大尉、5連隊の雪中行軍大隊本部付きだった倉石大尉も戦死。この戦闘で弘前31連隊、青森5連隊は大隊長、中隊長のほとんどが戦死した。八甲田雪中行軍隊の山口少佐、神成大尉が生きていたとしても、この地で戦死する運命だったかもしれない。




地元の人はここが激戦地だったことは知らず。丘の上に祠があったが日露戦争とは無関係のようだった。


蘇麻堡から黒溝台を見る。



粉雪舞う大雪原に両軍の機関砲、小銃の弾丸が雪をもかき消すようにに飛び乱れた。相手に肉薄しようと雪原を進むと、隠れる場所がないため、容易に狙撃される。雪原は両軍の戦死者で埋まっていった。凍ってコンクリートのようになった固い地面に顔をも埋めるように、精一杯に体を伏せ、飛び交う弾丸の雨をよける。ふと、顔をあげると中隊長、大隊長が直立し、平然と望遠鏡をのぞいている。兵士たちはその姿を見て奮起した。戦闘開始から4日目の28日、弘前8師団は猛烈な反撃を開始する。ロシア軍は突如退却、ロシアの敗因は複数指摘されているが、日本軍の粘り勝ちとも言えよう。もし黒溝台会戦に敗れていたら、その後の歴史は大きく変わっていただろう。


黒溝台会戦。吹雪で気温マイナス27度。体感温度はマイナス40度以下と思われる。

取材・イタリア5network 2018/2/4



黒溝台会戦の現地へ。中国公安警察に拘束される - 宮田聡監督コメント

高倉健の映画「八甲田山」のラストシーンのテロップ。「徳島大尉、倉田大尉、伊藤中尉らは二年後の日露戦争中、極寒零下二十数度の黒溝台で二昼夜飲まず食わずに戦い、続く奉天大会戦を勝利に結びつけ、全員戦死した」 八甲田で生き残っても黒溝台で死が待ち受けていたわけで、この黒溝台に以前から興味を持っていた。また次回作に少しだけ関連する事柄もあって中国・遼寧省灯塔市黒溝台を訪れた。瀋陽(奉天)から南へ車で約2時間半。牧草地帯が広がり、農村が点在している。八甲田山雪中行軍遭難事件、生存者の5連隊・倉石大尉、31連隊・福島大尉が戦死した黒溝台会戦。黒溝台付近に山はなく、平野が果てしなく広がっている。最も死傷者が多かったのは黒溝台の南西500m付近にある小さな丘。日本、ロシア、両軍が進撃しても隠れる場所がまったくないため、この丘を巡って大激戦となった。丘の全体を撮影するため、ドローンの使用を検討。中国民航局に申請を行い、飛行禁止区域か否かは現地のコーディネイターが公安警察に確認を済ませた。しかし、黒溝台に行ってみると民兵の車両数台が尾行、監視をしておりドローンを飛ばした数分後にコーディネイターとともに拘束された。スパイ容疑で公安警察の取り調べが6時間、怪しい点はないとされ解放された。中国に詳しい関係者の話では「国、県、市によって法律が違ったり、その解釈や運用も異なるという。それが中国という国」とのこと。

撮影途中で拘束されたために、このリポートに掲載している画像が足りない点はご容赦願いたい。現地で慰霊のためにと持っていった線香、花、お菓子、たばこ、お茶など、供える前に拘束されてしまい、手を合わせられず、黙祷できなかったことが残念だった。

伊藤中尉は雪中行軍、日露戦争と直面する死をかいくぐり生き残った。八甲田で最後まで歩き続け生還した後藤房之助伍長が、もし黒溝台会戦に行ったとしても、きっと彼は生き残っていたような気がする。強運とは何だろうか?生と死、運命・・・。次回作へ向けての取材を行っているところである。


1900年頃の奉天を再現した中国瀋陽の映画撮影所にて。