新たな発見 遭難要因
【遭難要因3 低体温症】
神成大尉の叫び、「天は我々を見放した!」
映画八甲田山のヒットとともに当時の流行語にもなった。頼りにしていた指揮官が突然、「みんなで死のう!」と叫ぶ。
兵士どころか、大隊長の山口少佐も卒倒してしまう始末。士気は下がる。それほど神成大尉の叫びは強烈なインパクトを与えた。彼はなぜそんなことを叫んだのか?
指揮官が言うべき言葉ではない。リーダーとしての資質を疑う。指揮官に判断力がない。指揮官が無能。遭難原因はリーダーシップの無さ、など批判の嵐である。
ドキュメンタリー八甲田山の独自取材で判明した真実、神成大尉が叫んだ理由は簡単、そして明白である。それは、、
取材時に作成した遺体発見位置の資料。C=鳴沢、D=馬立場
凍傷、凍死、寝ると死んでしまう、などというのは比較的知られていたと思うが、低体温症という病名を聞くようになったのは最近のことだろう。エベレストなどへ行く登山家や山に詳しい方々は知っていても低体温症に対する知識は一般にはないに等しい。低体温症とは何か、どのような症状か、初期から重度までどう進行するかなどリサーチをした。
目に見える部分では凍傷がある。初期症状は耳や鼻、指先の感覚が無くなり、重度になるにつれ、肌の色が黒く変化。エベレストに登山に行き、凍傷になって指を切断というのはよく聞くコワい話でもあったりする。しかし目に見える凍傷とは違い、周囲も自身もそれに気づかないのが低体温症の怖いところ。
ドキュメンタリー八甲田山の撮影。ロケ場所は実際の遭難現場である鳴沢と馬立場付近。酷寒の雪壕の中でのシーン、時刻は夜7時半くらい。撮影現場の気温マイナス12度、風速10メートル。雪中行軍隊指揮官の神成大尉が上官の山口少佐にこう話しかけるシーン。
「ここに留まっていると凍死者を出す恐れが。ただちに出発すべきと考えます」
これに対して山口少佐がこう言う。
「暗いうちの出発は危険だ。明るくなるまで待て!」
山口少佐役は舞台役者の川田誠司。撮影現場では台本は持たず、セリフもすべて頭の中に入っている。カメラの前、短いセリフが飛んでしまうなどという役者は滅多にいない。しかし、山口少佐、
「明るくなるまで待て」を「明るくなるまで待って!」と言い、NGを出す。単純にセリフを噛んだと思ったが、2回目のテイクもNG。
山口少佐(川田誠司)
これは変だと気づいた瞬間、マズいと思った。このシーンはあとに回します、はい次へと指示し、この後は撮影スピードを早めてこの日の夜の撮影を終わらせた。
山口少佐役の川田誠司、外套のフードを被っていなかったため、耳が真っ白になり、凍傷の初期症状が見られた。そしてセリフを噛んだのは明らかな低体温症。低体温症の初期症状のひとつは、自分では正常なつもりでも、ロレツが回らなくなること。
この日、八甲田山中での撮影開始から約8時間。
もしこのまま時間が経過すると、軽度の錯乱状態、まっすぐ歩けなくなる、転倒する、意識が薄れる、判断力を失う、震えが止まる、筋肉が硬直、思考停止、幻覚、幻聴、錯乱、昏睡、そして心臓停止。
ドキュメンタリー八甲田山 撮影現場での最初の凍傷者、低体温症の発生はスタートから8時間後のことだった。
「天は我々を見放した!」神成大尉が叫んだのは出発から3日目の朝、約48時間後。
ドキュメンタリー八甲田山、独自取材と撮影現場で起きた事実を総合すると、神成大尉が叫んだ理由は低体温症による錯乱。低体温症の進行過程において典型的な症状のひとつである。
これは誰にでも起きる現象であり、指揮官の素質であるとか、指揮能力とは一切関係がない。
行軍開始から錯乱まで48時間、食事も睡眠もほとんどとれず、神成大尉はよくここまで持ちこたえたものだと感心するくらいだ。その後、青森への帰路が見つかったということもあり、希望を取り戻し、再び先頭に立って歩き出した神成大尉。その精神力の強さには驚くばかりである。
八甲田山雪中行軍遭難事件の遭難原因と低体温症の関連性を分析したのはドキュメンタリー八甲田山が初めて。「天は我々を見放した!」当時とまったく同じ状況におかれたら、たとえナポレオンだろうがシーザーだろうが、低体温症による錯乱で何かを叫んだに違いない。
リングワンタリング、局地気象、低体温症。
約7年に渡る独自取材で新たに発見した事実と遭難要因。事故は複数の要因が積み重なって起こるもの。1902年(明治35年)当時の時代背景、世界情勢、日本人の国民性、精神力の強さ・・・他にも要因が多数ある。
雪の青森市内